む だ い

おたくの人の雑談 テニミュとか、ひでやくんとか、嵐とか

テニミュに関するレポートを提出してみた。

私はいま大学生なのですが、いつか期末レポートでテニミュを題材にして書くのが夢でした。

それが叶ったのが、去年の後期。現代日本のエンタメやアイドル、初音ミクなどのポップカルチャーがメディアを通してどのように繁栄してきたか、というのがその授業の要旨です。

 

一応このレポートを提出したらよい評価をいただくことができたし、せっかくなのでネットの海に垂れ流してみようかなと思います。論文というほどえらいことは全く入ってないので、ぜひ薄目で読んでいただければ。

 

以下レポートより

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タイトル:「未熟さ」の系譜として見る「ミュージカル『テニスの王子様』」

 

⒈はじめに

 戦後日本のポップカルチャーを創り出してきたのは「幼いもの、未熟なもの」であるというのが本講義の主張であった。そこで真っ先に思いついたものが「ミュージカル『テニスの王子様』」である。これは漫画作品を舞台化・ミュージカル化した「2.5次元ミュージカル」と呼ばれるものであり、最近はその数も増え、海外でのライブビューイングや公演を設けるなど、今では日本のポップカルチャーの一つになりつつあると言える。

 本レポートでは、「ミュージカル『テニスの王子様』」において「未熟さ」という考えを応用しながら、なぜ現代日本においてこのミュージカル作品が長い間人気を博しているのかを成長、学校、身体性の三つの観点で考察していく。

 

2.「ミュージカル『テニスの王子様』」という作品

 まずは、この作品について簡単に説明しよう。『テニスの王子様』は1999年から週刊少年ジャンプで連載されていたテニス漫画であり、本ミュージカルは単行本をもとに男子中学生がテニスの試合を通して成長していく過程を歌、ダンス、そして様々な演出を用いて舞台化した「ミュージカル『テニスの王子様』」(以下テニミュ)と呼ばれる作品である。2.5次元ミュージカルは多数存在すると先述したが、その中でも異質の存在感を放つのが「テニミュ」である。まず一つ目の特徴が長い公演である。2003年の初演を皮切りにキャストを交代しながら同じ物語を繰り返し上演し続け、現在は3周目を行っており実に13年という超ロングランの公演である。二つ目は、女性を一切登場させないことだ。もちろん原作の中では女性キャラクターも登場し、声のみの出演はありえるが女性を舞台の上に登場させることは決してない。そして三つ目は、以下に記述する特殊なキャスティングである。

 

3.成長する「未熟」なキャストたち

 テニミュに特徴的なのは、そのキャスティング方法である。なぜ「未熟なもの」としてテニミュを取り上げたのか。実は未熟なのはテニミュというシステム自体ではなく、舞台上に登場するキャストたちである。キャラクターのキャスティングは一貫してその多くが舞台経験さらには演技経験そのものがなく、世間に顔が知れていないような新人であり、そのほとんどが20歳前後の若者だ。この方法について、プロデューサーの片岡義朗氏は「匿名性」と説明している[i]。例えばある有名俳優Aが手塚というキャラクターを演じるとすると、観客はどうしても「Aさんが演じる手塚」を観に来ることになり、それではキャラクターだけを観に来ることができなくなってしまう。これを避けるために余計な情報なしに純粋に「なりきれる」新人を探すというのだ。

 では、「未熟」なキャストたちで構成されたテニミュという舞台は、いわゆるイケメンと呼ばれる若者たちが集っただけの学芸会のようなミュージカルなのであろうか。もちろん舞台経験のほとんどない役者ばかりであるから、いくつもの舞台を経験した俳優たちよりも演技、ダンス、歌等々、未熟なのは否定できない。それでも観客たちが劇場に足繁く通うのはなぜか。観客たちが彼らに、テニミュに求めているのはそのような技術ではない。「未熟」ながらもキャラクターになりきり、長くハードな公演期間を乗り切るためにチームメイトと協力しながらがむしゃらに努力し、そのときできる100%の力で舞台に立つ彼らの熱量なのである。テニミュの制作会社・ネルケプランニングの取締役社長であり演劇プロデューサーの松田はインタビューの中で「未熟であるがゆえに熱で見せるしかない。(中略)そうすると、自ずとお客さんの気持ちにシンパシーが湧いてくるんですよ。『この子はどう成長していくんだろう?』といった、親の気持ち、母性が生まれる。」と語っている[ii]。これはまさしく、人々が箱根駅伝や甲子園に熱中することや、講義内で紹介されたザ・ピーナッツのように育っていくアイドルを見守る心情と大きく重なる。決して上手ではないけれど一生懸命なところを応援し、そうすることで彼らを育てていきたいという気持ちは観客の中では表面的ではないかもしれないけれども、結果として「未熟さ」の尊びにつながっている。

 また、テニミュ俳優にはジュノンスーパーボーイコンテストの出身者が多い。こうした賞に選出された何者でもなかった青年たちがキャストとして舞台に立つことで磨き上げられ、次第に俳優として成長していく姿は、正田美智子氏の「シンデレラ・ストーリー[iii]」の現代・男性版とも言える。

 

4.「学校」としてのテニミュ

テニスの王子様』という作品の中には学校という単位が存在するが、これはミュージカル版でも無論登場する。宝塚音楽学校や甲子園同様、この学校というイメージも未熟さのイメージに関連付けられるだろう。もちろん集まったキャストたちが同じ学校に入学したというわけではないが、彼らの行動は部長や副部長、それぞれの学年やライバル関係といったキャラクターのポジションと次第にリンクしてくる。例えば彼らは学校という単位の上で合宿やミーティングを積み重ねチーム意識を高めていくが、そのとき中心となるのは部長のキャストであり、千秋楽で学校ごとに挨拶をするのも部長である。その中で自然に「自分は部長である」という自覚が年齢や経験関係なしに芽生えてくるのだ。また、キャラクターとしてではなく演技や舞台経験のあるキャストが後輩のキャストにアドバイスを行うほか、苦手な部分を自主練習するような風景もよく見かける。その様子はさながら本物の学校であるかのようだ。そして、最終的に各々の学校が練習を積み重ねてきたものが舞台の上で表現される。テニミュにおいてはシナリオが決まっているため何度上演しても勝敗は変わらないが、それでもお互いの無垢な努力がぶつかり合い、戦いに生のドラマが生まれる過程は甲子園を彷彿とさせる。

 

5.テニミュの身体性

 テニミュは、名前のとおりミュージカルである。キャストたちは舞台上で踊り、歌い、テニスをする。これは身体表現そのものであり、単純に私たちはその身体を「消費」しているといえる。問題となるのは、その身体は舞台上では中学生だということだ。舞台に慣れ一定のファンがついたとしても、年齢が高くなりすぎては学校という設定に無理が生まれてしまい、舞台自体が成り立たなくなってしまう。特に主人公であり座長である越前リョーマ役には顕著である。物語の要であるこの役は身長151cmの中学一年生であり、全体のバランスのためにも身長が大きくなりすぎてはいけない。しかし、キャストたちはハイティーンを含むためまだまだ肉体的成長の可能性があり得るし、実際に彼らは公演数に比例して身長が徐々に伸びて大人の雰囲気をまとってくる。こうした理由から、キャストは長くても2年(例外はある)で交代、卒業することになる。本居みどりら童謡歌手は、無垢な子どもが歌うことに価値を見出されてその身体を消費されていた[iv]。そしてその子どもが発する「不思議な力」は肉体的成長を果たすほどに失われてしまうため、本居長世は娘たちを続々とデビューさせ、子ども期を更新し延長していたという[v]が、これはテニミュキャストの卒業という制度とまったく同じだと解釈できる。大人になるにつれて、演技力でも策略でもない熱さ、中学生を演じるフレッシュさ、部活動のように全力で物事に取り組むエネルギーはおそらく失われてしまう。これらを「不思議な力」と捉えるとするならば、この力を延長し繰り返し続けていくためにキャストは卒業し、新たなキャストが生まれるのだ。その意味でも、若い彼らの身体は消費されている、と言える。

 

6.まとめ

 観客たちは、誰もが通った(もしくは通りたかった)であろう青春を、未熟だけれどがむしゃらに努力し成長していく彼らに投影し、ともに体感している。それだけでなく、まだまだ発展途上の少年たちの未熟だからこその一生懸命さを無意識のうちに尊いものとし、自分たちが育て上げているという感情を彼らに対して抱いているのだ。「未熟さ」という観点を抜きにしてはこのコンテンツの人気の理由を語ることはできないだろう。

 

 

[i] 真山緑、稲葉ほたて「2次元と3次元の狭間にあるもの−−『テニミュ』が生み出したリアリティ」PLANETS 2015年10月30日更新(最終閲覧日:2016年1月25日)

http://wakusei2nd.com/articles/2640

[ii]島貫泰介「2.5次元ミュージカルが世界で勝負できる理由とは?松田誠が語る」CINRA.NET 2015年7月17日更新(最終閲覧日:2016年1月25日)

http://www.cinra.net/interview/201507-littlehero?page=2

[iii] 東谷護編『ポピュラー音楽から問う−日本文化再考』(2014)せりか書房 p161

[iv] 周東美材『童謡の近代−メディアの変容と子供文化』(2015)岩波書店 p138

[v] 同上 p141-142

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今度はミュージカルの授業があれば、その機会に!